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偏差値序列社会の終焉?

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学問・お勉強の話
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偏差値序列社会の終焉、らしい。
個人的には半分賛成だけど、同時に半分反対。

https://dot.asahi.com/aera/2017032200058.html

まず、高学歴者が社会的に優秀であるか=仕事ができるか、という観点についていえば、まるでそんなことはない。
世の中には残念な東大生がゴロゴロしている。
東大を目指すために、必死に勉強をしたことは結構である。
個人的にはそれすら無駄な努力だ馬鹿、と否定したいところだが、まぁ「嫌いで嫌いで仕方ない勉強を必死に何年も続けました」という、その努力は認めるとしよう。
ただ、そこで得たものが仕事に結びつくかと言われれば、そういう部分もないことはないが、それならもっと別の勉強をした方がいい。
将来、仕事でそれなりの成果を挙げたいなら、受験の勉強に嫌々ながら人生の貴重な時間を何年も浪費するより、もっと別の単純スキルアップできるものを学ぶべきだろう。

大学受験に必要な勉強で将来的に幅広く活用可能なものは、せいぜい英語だけではないか。
それ以外の科目は、使える人には使えるかもしれないが、恐らくほとんどの人に共通して必須になるのはせいぜい英語程度だろう。
まぁ、あとは国語(現代文)くらい?
算数はないと困るけど、因数分解、微分積分などの数学を社会生活で使っている人はどれだけいるだろうか?
受験勉強でこんなことを学ぶくらいなら、例えば英語以外にドイツ語、フランス語、ロシア語、中国語、アラビア語などを学んだ方が、よっぽど生きる力にはなる。
ただし、受験科目に外国語は一科目しか選択できないので、この人は残念ながら優秀でも高学歴にはなれない。

それでは、上に挙げたような、因数分解や微分積分が社会的スキルではなく、大学教育でも不要かと言われれば案外そうでもない。
微分を誰が考えたかとか、そういった話はさておき、その論理思考の背景がどのようなものかを考えることは、理系のみならず文系でも重要だろう。
この話をさらに敷衍すれば、日本史の話が絡んできて、江戸時代の関孝和という人が出てきて、西欧東洋の論理的思考の背景の相異から、「普遍」を考える契機にもなるだろう。
ただ、残念ながら、僕はいまこの話を適当に出しただけで、ライプニッツとか関孝和とか、そういうのについて踏み込まれるとちょっと困る。
あくまでこれは例示程度の話だけど、とにかく大学ではこういった知識が非常に重要な問題になる。

じゃあ、上に挙げた微分積分、ライプニッツ、関孝和、それから「普遍」などは、社会的なスキルとして必要かと言われれば、99%不要だろう。
必要な人はいる。
でも、100人に一人もいないだろう。
「これらが勉強したい、「普遍」について考えたい、私は考えなければならない」というならそれは大学で学ぶべきだろう。
それは「嫌いで嫌いで仕方ない勉強を必死に何年も続けました」という勉強とは違う。

別に大学は「普遍」ばかりを考える場でもないから、上にも述べたようにこれは例に過ぎない。
が、とりあえず分かりやすいのでこの例をそのまま用いる。
「普遍」について考えるための勉強は、果たして社会的なスキルとイコールになるのか?
なる人もいるかもしれないが、そういう人はそもそも「社会的スキル」という文脈がかなり限定される。
ライプニッツや関孝和が日常生活で必要な人、100人に一人もいないんじゃないか?

しかし、一方でこういった知識の集積は大学で研究をするためには重要でもある。
だが一方で、社会的に生きるスキル、要するに仕事ができるようになるなら、こんな知識のために人生の貴重な時間を費やすのは無駄以外の何物でもない。
そのため、大学の受験で必要になる知識と、社会的なスキルとなる知識は、明確に異なった次元のもの、と考えて大方間違っていない。
もちろんそこには重複する部分はあるが、それはそういう部分があるという以上の意味ではなく、絶対に同一と考えてはならない。

別にここで例に挙げた記事に限らず、「頭のいいバカ」とか「高学歴の無能」なんて話はいくらでもある。
受験勉強で学ぶ知識と社会生活で必要な知識は全く別のものなのだから、当たり前だろう。
高学歴者は前者のスペシャリストなのだから、後者の価値で測られても困る。

でも、困ったことに、高学歴=社会的にも優秀、というまるで論理的とは思えない図式が結構通用してしまっている。
繰り返すが、高学歴者は受験勉強のスペシャリストなのであって、これは社会的に優秀であることとは一切結びつかない。
社会的に優秀な人材を求めるなら、大学受験なんてものに時間を費やすのは無駄以外の何物でもない。

まぁ、それ故に、偏差値序列社会なんてさっさと終焉すればいい。
偏差値序列がある程度有効なのは、大学受験という範囲内の話であり、またその延長の研究能力如何といった程度に過ぎない。
それを大学外の社会にまで有効とするからいろいろ問題が起きる。

しかし同時に、これら受験勉強の知識は大学学問という枠組みという中で必要かと言われれば、それはやはり必要なことは間違っていないだろう。
それ故に、偏差値序列社会なんてものはないに越したことはないが、それは別に受験勉強の知識が一切不要ということに結びつくわけでもない。
大学の学問の必要性を語るとまた面倒になるから省略するが、全くなくてよいというわけでもなくて、しかしそのために受験勉強的知識はやはり必要になる。
そのため、受験勉強的なものを一切不要とするのも、また論としては検討違いだろう。

だからどうしろ、という話になると中々歯切れのよい回答はできないのだが、個人的にこの問題は高学歴=社会的に優秀という図式がまかり通ることに問題があると思ってる。
あくまで、高学歴、つまりは大学受験の勉強で優秀な結果を出した人は、その領域において優秀なのであって、それが社会的に優秀という結果を保証するわけではない。
言い換えれば、高学歴者とはそういったことに人生の時間を費やした人間なのだ、ということが当事者も非当事者も自覚することが、まず第一になるんじゃないかと思ってる。