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気難しい人間ですが・・・・・・

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学問・お勉強の話
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自分が割と気難しい人間であることは知ってる。
でも、変わる気は一切ない。
その理由について話してみる。

突然話が変わるけど、いまさっき高校生とロボトミー手術の話をした。
ロボトミー手術は数十年前の精神治療のひとつ。
精神病(って何?)で手を付けられない人に対して、脳みその一部を切除したらおとなしくなった。
で、当時の精神医療界は「これはすごい手術だぞ」と大絶賛したらしい。
詳しくは以下のWikipedia参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/精神外科

まぁ、これは人為的に障碍者を作るのと同じ。
現代から見ればとんでもない話で、ロボトミーが肯定的に語られることはない。
ただ、僅か数十年前にはこれが肯定的に語られていることがあった。
これは恐ろしい話ではないか?

話を戻す。
僕が気難しい人間の理由は、たとえ数十年前に生きていたとしても僕はロボトミーを肯定する側に立ちたくはない、と思っているだけだ。

人格は生まれた時から決まっているわけではない。
人格とは、社会や時代の中で形成されるものであり、それらから超然とした人格なんて存在しえない。
だから今からは考えられないような価値観も、時代や社会背景を踏まえれば認められることは数多くある。
しかし、それでも僕は未来でも認められる一定の生き方だけは譲りたくない。

普遍的な価値観など認められるものではないから、この話は不可能な理想だと分かり切っている。
でも、だからといって諦めるのは違う。
全てに通用する話ではないかもしれないが、僕の考える学問の価値は「現代の価値観の相対化」という点にあると思っている。
時代が変われば社会のルールも変わり、いまからは想像もつかないような考え方が普通にまかり通っている。
むしろ、現代の人間の考え方の方が歴史的に見れば異常だろう。
そういう過去の考え方を知り、そして現代という時代を理解していくのが学問の醍醐味であろう、と僕個人は勝手に考えている。

残念ながら、そういう学問の道に多少なりとも踏み込んでしまったのが僕にとっての運の尽きか。
どうしても、目の前にある些細な状況においてすら、このことはきっと「未来のロボトミー」になるだろう、と思ってしまう。
だから、そういう動きに対して僕は協力的になれない。

以前に大学の友人と話したことだけど、割とウチの大学の出身者ってそういう人が多いのではないかと思う。