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今でもすごいゲームはあるもんだと実感【Nier:Automata】

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全ての存在は滅びるようにデザインされている。
生と死を繰り返す螺旋に・・・・・・
『彼等』は囚われ続けている。
だが・・・・・・その輪廻の中で足掻く事が、生きるという意味なのだ。
『私達』は、そう思う。

Nier:Automataを一通りプレイした。

Nier:Automata
内容的な部分はあまり触れないが、これは久々に良いゲームだった。
Nier:Automataそのものではなく、この作品を通じてゲームというものについて常々思っていることを軽く触れてみたいと思う。

NieR:Automata | SQUARE ENIX

ゲームが仮にただ爽快感を求めるような、娯楽のみを目的とした遊戯であるなら、「生きる」という意味をプレイヤーに問う必要はあるだろうか?
こういったゲームのストーリーにおける主題は、娯楽を支える背景でしかないのか?
そのように考えることもできるだろう。
いくら爽快なゲームであったとしても、長時間同じものを続ければ当然飽きる。
そこで、それを回避するための手段としてストーリーを用意して、それを追わせることで飽きることなく爽快な操作を繰り返させる。
そういった考え方も可能だろう。

しかし、反対にも考えられる。
何等かの命題があり、その考察としてストーリーを組み立てる。
そのストーリーを表現する手段として、ゲームというメディアを選択する。
この場合、爽快な操作性とはそれ自体が主題ではなく、最後までストーリーを飽きることなく追ってもらうための背景になる。

詰まるところ、この議論はゲームの主題を娯楽とするか、それとも命題とするか、という問題に行き当たる。
この議論は、実はゲーム論ではなく、芸術論に広く通じる話でもある。
例えば美術では、美術自体の美しさとは何かという問いに対して、完全に視覚的なものと答えることも、その背景にある思想的なものと答えることもできる。
美術以外にも、文学、演劇など、様々なものでこの議論は繰り返されており、ゲームだけに特別なものではない。

こういった議論は、いわば各論者の立場表明に等しく、絶対的評価として見るなら、どちらも正解でもなく、また不正解でもない。
しかし、仮に完全にゲームが娯楽のみを主題としたものであるなら、なぜそれらの作品は重厚な命題をプレーヤーに投げかけるのか?
反対に、仮にゲームに飽きることを回避するためにストーリーがあるとするなら、それを可能とするストーリーとはどのようなものなのか?
答えは単純であろう。
ストーリーがプレーヤーの関心を強く引き付けるから、このようなゲームは成立するのだ。

もちろん、このようなストーリーがなくとも成立するゲームは山ほどある。
単純にプレーヤースキルを問題とする対戦ゲームなどはそうだろう。
しかし、そういうゲームばかりではない。

強く関心を引き付けるストーリーを組み立てるためには、その主題となる命題がプレーヤーに共感されなければならない。
そしてその共感を得られるためには、その命題が表層的なものであってはならない。
それはプレーヤーの命題に一致しなければならない。
一致せずとも、琴線に触れるものでなければならない。
それが普遍的なものでなくとも、時代的、社会的限定条件下のものであっても、主題は命題として作用しなければならない。
主題がプレーヤーの命題に近ければ近いほど、ストーリーはプレーヤーの関心を引くものになる。

仮に、ゲームの主題が娯楽性にあり、ストーリーは背景に過ぎないと考えても、プレーヤーの関心を強く引くストーリーを持つゲームであるなら、そのゲームはストーリー面でも高く評価されるだろう。
もちろん、娯楽性が高ければ高いに越したことはない。
先に述べたことの繰り返しになるが、本当に娯楽的要素が一つもない、むしろ操作が不快であるようなものであるなら、悲しいことにプレーヤーは最後までゲームを続けることができず、ストーリーの主題である命題を感じ取ることなくゲームを終えてしまうだろう。
それ故に、ゲームから娯楽性を欠くことはできない。
しかし、プレーヤーと命題を共有し、それを主題としたストーリーを組み立てることは、完全なる客観的観点のみで成立し得るだろうか?

もしかしたら、そのような形でストーリーを組み立てられる存在もいるのかもしれない。
しかし、これは二分法的に、現代を客観視できる人間とそうではない人間の二種に峻別できるようなものではないだろう。
仮に命題を共有したとしても、それを主題としたストーリーを組み立てるとしたなら、距離を置いてその命題を見つめなければストーリーは独りよがりになり、反発を生む。
ストーリーを組むうえで、様々な観点からその命題を見つめなければならない。
しかし、その命題は一義的回答がないために、命題になる。
そのため、こういった命題を主題としたストーリーを組むということは、回答のない問いに対する自分なりの回答と、その論理を構築するに等しい。
したがって、プレーヤーに共有された命題を主題としたストーリーを組み立てる存在がいるとすれば、それは現代を客観視しつつもそうではない視点も併せ持つことになる。
その回答ですらも自分の考えを差し挟まず、完全な他人事として捉えられ、それでいてその回答がプレーヤーの共感を呼ぶなら、それはもう想像不可能な偉人の領域であって、僕にはそのような存在が想像できない。
(そういう作品がないわけではないが、僕的には駄作である)

そのため、僕は重厚な命題をストーリーの主題とするゲーム作品は、ゲームの主題を娯楽よりも命題と見る論に肩入れする。
ただ、ゲームの主題を問わずとも、ストーリーがゲームを最後まで楽しむための軸として機能するということは、その出発点となる命題とその回答、そしてその回答に至る過程がそれなりに練りこまれている、ということであろう。
煎じ詰めていえば、ストーリーにおける感動とは、命題に対して与えられた回答への同意であり、そこに至る論理への納得でもある、と僕は思っている。
そして、「納得した」といえば味気のない表現かもしれないが、「Nier:Automata」が最後に提示した答えに僕は納得した。

だが・・・・・・その輪廻の中で足掻く事が、生きるという意味なのだ。

最後になるが、ここで書いたことは「Nier:Automata」を取り上げたゲーム論だが、恐らくこれは他の様々領域にも通用すると思う。
少なくとも、僕は自分の専門領域である1900年前後の日本文学を、これに近い観点で測っている。
この観点が「芸術」という概念の評価軸として認められるなら、ゲームもまた「芸術」として見ることは十分に可能なのではないか、と思っている。

「Nier:Automata」は、ゲームとして、そして「芸術」として非常に面白い作品だった。
現代の、90年代を大きく過ぎた2017年に、僕の5本指に入るゲームが出ると思わなかった。

PS4を持っているか、そうでなければ高スペックPCを持ってる人はSteamで、「Nier:Automata」をやってみるといいとおすすめしておきます。